「千曲市観光協会」「信州千曲川のほとり戸倉上山田温泉」

民話・伝統イメージ写真

民話・伝統

 あんず・科野の里
《 あんずの由来 》
あんずの由来 あんずものがたり
〜300余年の歴史を秘める「あんず」〜
この地にあんずがもたらされたのは元禄時代といわれています。 一説によれば、伊予宇和島藩主伊達宗利候の息女 豊姫が、第3代松代藩主真田幸道候にお輿入れの折、 故郷の風情を偲ぶよすがにと、あんずの種子を持参したのが始まりとか。 当時は種子の中にある「杏仁」が、医薬品とて珍重され、松代藩が栽培を奨励したため、今日の姿になりました。
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 名月の里 さらしな・姨捨
《 姨捨山伝説 》
姨捨山伝説

信濃の国更級の里(戸倉上山田温泉)に一人の若者が住んでいました。 若者は養ってくれた伯母を母のように慕い、大切にしていました。 ところがこの国の殿様は年寄りが大嫌いで、六十歳以上になった者は山奥に捨てよ、とのおふれを出しました。 伯母も七十歳になってしまい、若者は泣く泣く背負って、姨捨山に捨てたのでした。 けれども、後ろ髪がひかれ一人で帰る気になれません。

若者はそっと引き返し、老婆を背負って帰途につきましたが、道がわからなくなってしまいました。 すると老婆は「おまえが道に迷わないように、小枝を折ってあるからそれを目当てに歩きなさい。」と教えてくれましたので、 無事帰ることができました。 そして地下室に隠しておきましたが、殿様に知れてしまいました。 殿様は「もし灰の縄をもってくれば許す。」とのことです。困った若者が老婆に相談するとすぐ教えてくれました。 それを持っていくと殿様はたいそう感心し、経験のありがたいこと、大切なことがわかり、 それから老人を大事にする国振りにかわったということです。

わが心慰めかねつ更級や おばすて山に照る月を見て(古今和歌集)

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 旅情戸倉上山田温泉
《 大正橋 < 小石の湯伝説 > 》
大正橋<小石の湯伝説>

昔、千曲川のほとりにお政という可愛く賢い娘がおりました。ある夏のこと、娘は往来で腹痛に苦しんでいる若者を見つけ、 心をこめ看病したお陰で若者は元気を取り戻しました。その若者は米吉といい、たちまちお政に心を奪われてしまいました。 実はお政も同じ気持ちでした。

やがてお政に縁談がもちあがり、孝行娘のお政は米吉のことを胸に秘めたまま同意したのですが、 何と縁談の相手は米吉だったのです。二人に異存のあるはずがありません。

結婚を間近に控えた米吉は所用で江戸に出掛けましたが、予定を過ぎても戻ってきません。 心配したお政は近在の霊験あらたかな十一面観音様に願をかけ日参しました。

ある日、お政の夢に一人の老人が現れました、老人は米吉の無事を告げ、 「そちは[信濃なる千曲の川のさざれ石も]という歌を知っておるかな。」と尋ねました。 お政は「はい、存じております。万葉集の東歌[(後歌)君し踏みてば玉と拾はむ]と教わりました。」と答えました。 老人はほほ笑んで「この歌のように米吉の踏んだ千曲の川石、 それも角のとれた赤い小石を百個拾い上げるなら米吉は帰ってこよう。」と言って去りました。

観音様のお告げと、お政はそれから毎日河原に出て角のとれた赤い小石を探しました。 九十九個になりましたが、最後の一個がなかなか見つかりません。 身体をこごらせながらある朝も出かけますと、一つの人影が右手で河原を指差します。 そしてそこからは湯気がたちのぼり温かい湯が流れ出しているではありませんか。 その湯で手足をあたためつつ探すうちに図らずもお政は百個目の小石を見つけたのでした。

夢のお告げのごとくその日のうちに米吉は江戸から戻りました。以来、このいで湯は「小石(恋し)の湯」と呼ばれました。

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《 葛尾城と笄の渡し 》
葛尾城と笄の渡し

「笄(こうがい=簪 かんざしのこと)の渡し」は当温泉から千曲川を2キロほど上流に向かったところに位置します。

村上氏は清和源氏より出で、南北朝時代より村上郷(旧上山田町、旧戸倉町、坂城町)に移り、 以来北信濃一帯に勢力を張った豪族でした。 戦国の世、村上義清は甲州の武田勢とよく戦いながらもとうとうその居城葛尾城を攻められ、 天文22年(1549)春4月、落城寸前まで迫られました。義清の奥方は、 侍女たちとともに敵の目を逃れながら村上氏の一族山田氏の守る荒砥城(上山田温泉の後方の現在の城山にあった) へ落ちのびようと渡し場から船に乗りましたが、荒砥城への道を細かに教えてくれた船頭の親切に感謝し、 その礼として「再びこの地を領することに相ならば、重い恩賞を授けよう」と言って、髪にさしていた笄を贈ったということです。 その古事にちなみ今も「笄の渡し」と呼ばれています。

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《 女涙坂 》
女涙坂

葛尾城からわずか3キロ離れたところ、 難攻不落を誇った戸石城は天文20年(1551)5月、武田の謀略工作により真田勢の不意討ちを受け、 突如落城してしまいました。 以降、周囲の同志が武田方へ寝返っていくなか、2年後の天文22年4月9日、 大須賀久兵衛らの軍に攻められて葛尾城もついに落とされたのでした。

奥方は追手の難を逃れて千曲川の渡し場(笄の渡し)を渡り、草林を分け登り、城の焼け落ちるさまを振り返りつつ、 泣きながら坂を下り、東国寺に駆け込んだと言われています。

その後、この坂を「女涙坂」と呼んで、戦国時代の悲話として伝えられています。

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